Klevjer (2012) “Enter the Avatar”

勉強会で読んでる/読んだもののまとめです。疑問や議論等あればコメントへ。

Rune Klevjer, “Enter the Avatar: The Phenomenology of Prosthetic Telepresence in Computer Games,” in J. R. Sageng, H. Fossheim, T. M. Larsen (eds.), The Philosophy of Computer Games (Springer, 2012): 17-38.


ゲーム内に「いる」とか、マリオの「立場に身をおく」(in the shoes of)とかいうのはどういうことを指しているのか。モニタの前でコントローラを動かしながら、まるで実際にゲーム世界内部にいるかのように行為することは、どのようにして可能になっているのか。

コンピュータゲームについての言説において、「アバター」概念はふたつの主な用法を持つ。

(1) プレイヤブルなキャラクタとしてのアバター(オンラインゲームだと、より限定的にプレイヤーの仮想的「ペルソナ」に重心を置く傾向にある)。

(2) プレイヤーが、それを通してゲーム世界内でのある種の具体化された行為性(agency)と現存性(presence)を与えられるところの、媒介物(vehicle)としてのアバター。

アクションアドベンチャージャンル(『スーパーマリオ』から『CoD』まで)では、このふたつの側面ないし機能はひとつのアバターのうちにひとまとめにされているが、両者は〔原理的に〕独立である。プレイヤブルなキャラクタは、たとえばEmailとかでも操作可能だし、逆に行為性や現存性の媒介物は、キャラクタである必要は必ずしもない(フライトシミュレータとかレーシングゲームとか)。

1. 行為性:カーソルアナロジー

多くの論者は、キャラクタとしての側面(1)が、行為性の媒介物としての側面(2)にくらべて、相対的に重要でないと言っている。Fuller and Jenkins (1995)いわく、「キャラクタはカーソル以上のものではない」。Ryan (2001)も同じようなカーソルアナロジーを使っている。

Newman (2002)もだいたい同じようなことを言っている。いわく、「〔プレイ中の〕キャラクタは、利用可能な性能と能力の集合として具体化される」、「あらゆる〔プレイ中の〕ビデオゲームキャラクタは、その再現的特徴にかかわらず、乗り物のようなものとして考えることができる」。

しかし、Newmanの説明は、たんなるカーソルアナロジーを踏み越えているように思える。もし、キャラクタが実際にプレイヤーの「具体化」(embodiment)であるとするならば、キャラクタは、プレイヤーの行為性を媒介するだけでなく、プレイヤーの現存性(崖から落っこちるとか)をも具体化しているということになる。これは〔普通の〕マウスカーソルにはない特徴。

アバターの道具としての側面とキャラクタとしての側面の両方を取り上げている論者はたくさんいる。

2. 義肢的行為性とカメラ身体

プレイヤーとアバターの関係に対するこのような二重機能アプローチは、行為性という道具的概念に結びつけられるせいで、アバターを通じてゲーム世界内に「いること」の問題にあまり焦点をあわせない傾向にある。この問題について示唆的な議論を二つ紹介する。

Wilhelmsson (2006)の「ゲームエゴ」概念。これは、プレイヤーの身体の拡張ないし義肢(prosthesis)、「触覚的な運動的/運動感覚的連動」(tactile motor/kinaesthetic link)として機能するもの。「義肢的行為性」とも呼びうる。まるでプレイヤーが義肢を通じてゲーム世界に直接手を伸ばしているような感じ。Wilhelmssonによれば、ゲームエゴの中には、『テトリス』のブロックなども含まれる。

『テトリス』のブロックをアバターとして見なすべきかどうかは別問題としても、ゲームエゴという概念と義肢的アバターという概念は重なっている。両者とも、ゲーム環境のから行為性を媒介し、身体の拡張のようなしかたでプレイヤーの手と目に接続されるからである。

また、Wilhelmssonによれば、ゲームエゴは、ブロックやキャラクタのような可視的要素だけでなく、移動運動(locomotion)の経験によっても成立しうる。これと同様の考えが、Rehak (2003)に見られる。いわく、「アバター操作は二つの要素から起こる。第一にオンスクリーンの身体であり、これは部分的にであれ全体的にであれ可視的である。第二にオフスクリーンではあるが想定される身体であり、これはプレイヤーが操作する可動カメラのまなざしを通して構成される」。

後述するように、たとえ〔Rehakが言う〕「物語世界内的な」具体化(diegetic embodiment)がある意味でミスリーディングだとしても、Rehakの指摘は重要である。というのも、アクション/アドベンチャーゲームの歴史は、ゲーム世界の中にいるという、より没入的で本能的な感覚に向かって進んできたからである。

3. 義肢的アバターのパラドックス

しかしここで、アバター的な拡張が他の身体的拡張とは異なるということを強調しておくことが重要である。義肢的アバターは、プレイヤーのエゴ機能、行為し知覚する主体としてのプレイヤーの、たんなる拡張以上のものである。

プレイヤーとアバターの関係の中心には、あるパラドックスがある。プレイヤーがゲーム世界に拡張しつつ、同時に、プレイヤーがそのゲーム世界の「うちに存在し」、その「中から行為する」といかにして言うことができるのか。アバター的具体化は、いかにして「拡張」であると同時に「移転」(re-location)でありうるのか。義肢という考えは、〔ゲーム世界内に〕具体化された存在ないし現存性という考えと矛盾しているように思える(とりわけ「カメラ身体」と関係づける場合)。

このパラドックスについて現象学的分析が役に立つ。それはまた、ゲームデザインの観点から見た場合のこの問題の理解にも寄与するだろう(たとえば、没入の観点から見た場合のFP視点ゲームとVRインスタレーションの中心的なちがいはなにか、移動可能な3D環境と2Dゲーム空間のちがいはなにか、2Dアバターと3Dアバターの義肢的本性は基本的に同じなのか、決定的にちがうのか)。

「虚構性」の問題もある。これは、アバターベースのプレイにおける「ここ」と「そこ」のあいだにある緊張関係という問題の部分である。私は以前、身体的義肢という現象学的概念をフィクションとシミュレーションの理論に結びつけた「身代り的」具体化(”vicarious” embodiment)という概念を提案した(Klevjer 2007)。

この議論を非常に簡単にいうと、アバターがカーソルと異なるのはそれがシミュレートされた世界に属しているからである、というものだが、よくよく考えてみると、アバター的具体化がシミュレートされた具体化であると本当に言えるかどうかは怪しい。以前の私の主張に反して、シミュレーションとフィクションの理論はアバター的具体化の決定的なメカニズムを必ずしも説明しない。

というわけで、かわりに、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』で論じられている身体的拡張の概念をより綿密に検討したい。この論文で私が提案したい中心的考えは、アバター的拡張は、主体としての身体と対象としての身体のあいだ、および「身体的空間」と「外的空間」のあいだにある特定の種類の関係を媒介するものだ、というものである。身体の本性におけるこの二重性は、志向性という現象学的概念にもとづく。

次回は4節から!

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Klevjer (2012) “Enter the Avatar”」への1件のフィードバック

  1. めも:勉強会中にちょっと話したことですが、プレイヤーがプレイ中にコントローラを繰りながら「ここ」とか言ったりする場合と、見てる人が画面を指して「ここ」とか言ったりする場合の、「ここ」の用法やそれぞれの指示対象はちがうよなあという発見が興味深かったです。

    そのような複数の「ここ」の用法がなぜ自然に出てくるのかという話になると、このKlevjerの「現象学的」な議論とつながるんだろうなあという。

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